-----「原発とは結局なんだったのか」いま福島で生きる意味-----清水修二

2012年3月11「原発いらない!3.11福島県民集会大集会」の宣言文を起草した人の言葉だけにより重みを感じる。この本は脱原発の運動を進める者たちに対する警句でもあり、国民への警句でもある。これだけ事故が起こっているのに、何もなかったように原発を動かしてはならない。

以下著書の抜き書き

善意が産む差別
たとえ福島の「汚染地域」から住民が逃れ出たとしても、被爆の問題はそれで解決するわけではない。すでに浴びてしまった放射線の問題がある。事故の放射能で数十万人がガンになるとか、先天異常の子供が生まれると言った物言いは、現に被災した住民の耳には脅迫的な響きを持って聞こえる。あえてどぎつい表現をすれば「呪いをかけられたような」気持ちになる。・・・・私が問題にしたいのは、そうした危険性を口にする人々の「想像力」がどの方向に向いているかだ。言いかえれば原発批判論者のセンスの問題である。p11

フクシマの子供や母親に向かって「そんなに心配することはない、大丈夫だ」といいう学者は反原発サイドからは御用学者だと指摘される。そう批判するのが正義だと観念されている。しかし、そこで生活している住民ににとってみれば、専門家のそうした言葉は日常のやりきれないストレスを多少とも減じてくれる。福島に住んでいるものが、そこに住むという自分の選択が間違っていないことを裏づけてくれる専門家の意見を信用したいとおもうのは自然なことだ。これは確かに情報受容のバイアス(偏り)に違いないがこのような被災者心理を知らずに無神経に外から「善意」を押しつける者への反発があることは知っていて欲しいと思う。p12

私たちは今度、原発災害に遭遇することによって、過去最大級の「差別の社会問題」を抱えこむこととなったと言っていい。p13

国民が明確な意思を示さないまま、現実追随の形で事態が推移していく。これを私は「怠惰な現実主義」と呼びたい。p131

原発とは結局なんだったのか
原発とは第一に国民の「自覚なき選択」と「怠惰な現実主義」に支えられた存在であった。
・・・・・私がそれよりむしろ国民サイドに所存する問題点をあえて指摘したのは福島の参稼を「国民の課題」として認識することがいま何よりも重要だと考えているからにほかならない。汚染瓦礫の処理・処分問題をはじめとして、これから被災地が復興(すなわち奪われた基本的人権の回復)への道を確実に歩むためには、国民意識の大きな転換が必要だと私は感じている。それがないと「福島の風化」は思いのほかのスピードで進む恐れがあるし、脱原発運動も失敗に終わる可能性が高い。p144