原発を拒み続けた和歌山の記録

汐見文孝監修 「脱原発わかやま」編集員会  発行 寿朗社
1500円+税 


紀伊半島には原発がひとつもない。しかし、原発立地にねらわれた地域はいくつもある。和歌山県では大地町、古座町、日置川町、日高町の小浦、阿尾。このほかにも三重県では芦浜が立地地域としてねらわれた。この本は和歌山の闘いの記録だ。
 今更ながらに原子力発電所をめぐって関電、自治体、国が「地域」へ襲いかかってくるのかがよくわかる。「ねらいをつけたら必ず立地するのが関電の伝統」と当時の社長小林庄一郎が言っているように、すさまじいまでの切り崩しだ。 
 関西電力は若狭に集中する原発紀伊半島に建設したいとねらっていた。その動きは1967年頃から活発になってくる。立地のためには土地の取得が必要だ。それをめぐって驚くべき手口が使われる。この本に書かれていることはほんの表に出ているもので、もっとすさまじいものがあるのだろう、と想像する。日高阿尾地区では、木材会社が自社工場建設のためと言って土地を買収する。その土地が工場建設をされないまま関西電力に転売されていく。もう一つ小浦地区では観光開発ということで土地を買収、いったん町長名義にしておいて、関電の関連会社に売却するという卑劣さだ。特に日高比井崎漁協をめぐってはすさまじい。漁協が反対決議を上げても、切り崩していく。漁協の資金難につけ込んで、関電が3億円を預金する、ということもしている。そして、そのあげくに漁協の不正融資。これもどれくらい関電の関係者が暗躍したことか。
「濱一巳のがんばり」の項ではこのように書かれている。
何度も何度も危機がやってくる。昭和60年1985年8月の臨時総会のときのことである。古座の田原漁協の組合長と違って比井崎漁協の組合長たちは次々と寝返っていく。そのときも反対派のA組合長代行が1年後には推進派に転向したのだ。彼は昭和54年の町議選でただ1人の反原発候補として304票のトップ当選した人であった。それを知ったときに濱たちは唖然とした。

 そして1988年、海上事前調査は日高比井崎漁協の総会を頂点にぎりぎりのせめぎ合いが続くことになる。この総会で廃案、役員辞職ということになるのだが、諦めきれない町長はまだ漁協へ出向く。その時、濱一巳はこう叫んだ。
「漁師はな「板の下地獄一枚」と言うんや。そんなところで働くもんは皆仲良くせなあかん。町長!おまえにこの気持ちが分かるか!」
このように言ったという。そして町長は「分かった」と言って去っていった。漁民の心が推進に蝕まれた町長に勝った一瞬に思える。 そして、1990年日高町、92年日置川町で原発反対の候補が当選。2005年電源開発促進重要地点の指定解除で原発立地候補地をはずれることになる。しかし、地域の傷跡はこのように残っていく。
 
 小浦なんかでも昔の事として原発に触れないようにして生きています。・・・・原発というのは禁句でして、うっかり言っては平和を掻き乱すような言葉になってしまうので、もうその話題は皆避けるようにしています。やっぱり私らの喧嘩した年代が死んでしまわない限り、その傷跡というのはとれないだろうと思いますね。
鈴木静枝「再録 女から女への遺言状」

私はこの本を読んでつくづく「原発の犯罪」を感じた。他の地域だが反対運動のリーダーに札束が積まれた、ということをご本人から聞いたことがあるからだ。関電は立地のために汚いお金を電気料金から使っている。
 この本では原発を拒み続けた人々、として、地域運動を支えた人々を紹介している。1人でも座り込みをする市井の学者宇井田さん、公害教室を開かれていた汐見さんご夫妻、そして、おんなたちのネットワーク。全てを書ききれないが、チラシをまき、講師を呼び・・・と自分の信念に基づき活動されていた人々がいたからこそ、私たちは紀伊半島原発がない日を迎えている。
 感謝と共に、脱原発を求めて!がんばろう。という気持ちにさせてくれた記録だった。
改めて、ありがとうございました。
スペースふうら=9月14日(金)今井紀明さんを招いて