詩集「吾亦紅」五十嵐節子さん

詩集「吾亦紅」(われもこう)を五十嵐節子さんに送っていただいた。この詩には作者五十嵐節子が詰まっている。陳腐な言葉だが彼女の人生が書かせた一冊の詩集。とても重い詩集だった。
この詩集の冒頭に「骨の悲歌 自画像」と題された詩がある。この詩集は3部構成になっていて1部はこの冒頭詩だけで成り立っている。私はこの詩を読んだとき、人の愛欲(こういう言葉しか浮かんでこないのは残念だが)に震え上がってしまった。そして、妙に気持ちの高ぶりが続いたこと思い出す。
(部分)
好きでやせた訳ではないんよ
しがらみを削ぎ落していたら
どう間違ったんか 肉まで削いでしもたんよ
肉と欲はセットになってたらしいな
欲を落としたら肉までのうなったんよ

骨だって欲はあるんやけん
空が凍りつく冬の夜には
恥骨と恥骨を激しくぶつけたいと
思うこともあるんよ
カチカチと骨は泣いて 青く燐が光るやろうな
(部分 骨の悲歌---- 自画像-----)

第2部では、先に逝ってしまった夫への思いが書かれている。この一つ一つの詩編にも心が揺さぶられる。その中の1節。/「死者をして安らかに眠らし給え]/そんな牧師の戯れ言なんか/うちは許さん(部分 大阪慕情)として、すぐその後で「うちはあんたを睡らせへん」とたたみかける。そして、最終連で次のように結んでいく。/うちが死んで この星を出てゆくとき/あんたと連れもって/行くつもりやよって/それまで あんた目ぇ醒ましとき

そして第3部。詩集の最後におかれた一遍「吾亦紅」は今の作者の一面を見せてくれる。
(部分)
生と死がからだの中に同居しているような
曖昧な老いの怠惰に流れがちな日常を
紅紫の花実の鋭さは
残る刻を 孤独に徹して生きよという  

作者はすでに老境の域にはいり「残る刻」を意識する。作者のように、私も「残り」を意識する。しかし、死がからだの中に同居する心は生まれてこない。それだけ、まだ死が遠いところにあると思っているのだろう。彼女は私と違って、死を強く意識する。そして「焚べる」と題された詩では亡き父を追想する。その追憶は死者に止まらない。彼女は日本の近代史にも目を向けていく。「焚べる」の一節から

火を焚くを禁じられた都心の
半世紀近いマンション暮らし
七階の窓から見る秋の空を
野辺送りの煙に似た
雲がただよっている
死語となった「穏坊」も
七輪で焼いた秋刀魚の煙りも
漂う雲の彼方に消えていく

五十嵐節子さんはこれからも死と同居しつつ、そして、自己の歴史を振り返りながら切なくも批評精神の持ち合わせた詩を書き続けるのだろう。
 自分を振り返って私も・・・彼女のような詩を書いてみたい、と思う。書けないよなぁ、とも思う。
ボクが恥骨という言葉を使うとただのエロじじいのようになってしまうだろうなぁ。いろいろ考えさせられる一冊の詩集でした。
  「吾亦紅」 五十嵐節子 発行 パレード(1000円+税)